昭和41年04月27日 朝の御理解



 十三、四年も前のことでございましたでしょうか。北野から深町という人、ここに修行に来ておりました。中々、実意丁寧な青年でした。胸の病気でもう医者はダメだとさじ投げておるような、次々ここにあの病人の方達がここにも泊まり込みであの、おかげ頂いておるあの時代でした。非常におかげを頂きましてから何ヶ月経ったでしょうか、ここで、まあ、半年もおりましたでしょうかね。
 もう、どんな御用でもさせて頂けれるように、御本部にもお礼参りをさせてもらい、まあみたところ、健康のおかげを頂いたというような状態でございましたから、家内も別居しておりましたけれども、家内とあちらのお父さんと迎えにまいりまして、それでまあその帰らせて頂く。その事を神様に私がお礼を申させていただきましたら、あの、まだ、おかげは半分ぞということを頂いた。御心眼に鯛を半分頂いた。
 だからな深町さんこうやっておかげ頂いてからもう本当に何をしたっちゃ障らんとまあ、これだけ成る程見た目にも立派におかげ頂いたごたるけれども、神様はまだおかげを半分しか頂いておらんと仰る。これからの信心が大事じゃから、さあ、ここは帰ってもいいけれどもあとの信心をしっかりせにゃばいなというて、その帰ったんですよ。それからまた、半年くらいしてからでした。また、病気が落てかえったんですね。
 してそん時には、北野の療養所ですかね。天満宮様の中に境内にありますが、あちらに入って養生したんですけれども、それからまもなく亡くなられました。本当にもう残念な話ですもんね。神様もご残念であろう。本人も残念であろう。それでまた、そん時取り次がせて頂いた私も残念至極です。私お道の信心はね、本当にその一つのことが成就したと形の上には成就をしたかのようにあっても、その時には半分だとまず、思わなきゃいけないと思うですね。
 そしてその先に、半分の信心が成就される時です、それはその事ではない、いわゆる親神様の願いというか、本当に神様がこの病気によってこのことを下さることのためであったと。この一つの願い事の難儀なら難儀と言う事の成就したけれどですね、その成就したからというて終わったのじゃない。まだ半分という気持ちで信心させてもらうと、はあ、この難儀な事によって、この事を下さるためであったというような、いよいよ神様の本当の願いを私共氏子の上にに表してくださるようなおかげ。
 その辺がね私はやっぱお道の信心の違ったところであり、成る程相手は天地の親神様だなという事を感じるのです。ただ、氏子が本当の幸せと。ね。例えば一つのことが成就いたしますと、よくあのお宮さんやら何々様なんかに参りますと、ね、あの御祈願成就といったように例えば成就したと願い事が成就したから、あそこに登りの一つでも奉納すりゃそれでおしまいになったといったようなものではないといこと。
 またその事が成就したからといって、その氏子が幸せになると言う事じゃあないのですからね実を言うたら。その病気を通して、その難儀を通して本当の信心を分からせてもらい、本当の幸せの生活に入ってくれよというのが神様の願いなのですから、このことをですね、お道の信心をさせてもらうならよう思いこんでおかんといかんです。やれやれおかげを頂いたというてやれやれになってしもうてから、いわゆる向こうの方へはおりらずに手前の方へ降りてしまう。
 そこんところを教祖はその例えばこの、山登りをするのにです、ね、七分目八分目まで登ったからというても、その安心しちゃならん。頂上についたからというて安心しちゃならん。向こうへ降りた時が本当のおかげだと、こう仰る。いわゆる頂上につかせて頂きました、あーこれでやれやれもう、おかげを頂いた。とこういうような気になる、そこから、いわゆる向こうまでの降りりゃあいいのだけれども、手前の方へおりてしまう。ね。まあそういう例は沢山ありますよ。ね。
 一つのことが成就したと。願いが叶うたと。成る程、形の上には叶うたかのように見えるけれども、神様が深町っさんの時に下さったようにまだ、おかげは半分ぞと。御心眼に頂くところは半分の一匹の鯛をおかげとするなら、まだ半分しか頂いていないのぞと。もうけれどもおかげを頂いたというその喜びというかもう、上っ調子なというかね、もう、おかげ頂いたと言う事でもうそれこそ、家族中のものが喜んで、そして、まあ、連れて帰ったんですけれども。やはりおかげは半分だった。ね
 、向こうの方へ超えてからがおかげ。ね。例えばなら、御造営なら御造営があって、まあ、落成式なら落成式というところまでこぎつけたといたしましょうか。いうならば、業者なら業者への支払いが全部済んだといたしましょうか。それで、やれやれ済んだと思うたらたいへんだと私思うです。そこはいわば、頂上をに辿りついたというだけの事であって向こうへ降りてからが、安心じゃとこう仰る、その向こうに降り着いたところまでが信心、そこのところの信心をさせて頂くところによってです。
 成る程、こういう見事なお広前が出来た。そしていうなら、中で信心の稽古をさせて頂いておる、私共もおかげを受けたというような時ではなかろうかとこう思うです。こりゃあもう一事が万事に同じ事。これは、教祖の神様の御言葉の中に、今中という言葉がある。今中と。今が真中。それを例えばあの、修行のことでもそうだと。今がまだ真中だといつも今中という気でおれとこう教祖は教えておられると思うですね。
 特に一つのことが成就した。もうおかげ頂きました安心しましたと、いうて安心してしまうと、手前のほうに降りてしまうようなことになる。向こうへ降りついてからが、本当の安心だと。そこんところを一つ本気で本当にそんなものだと思い込ませてもろうとかんと、いわゆる神様が下さろうとするおかげを頂かんじまいにしまわんならなん。ね。体が健康になったという事だけで終わったのじゃあない。ね、証拠にそれを緩めると後のほうへ、ダラダラと戻ってしまう。
 もうお礼のお届をしたけんで、いわゆる、御祈念成就の幟の一本も奉納したから、それで済んだと言ったような、神信心にはそういう考え方がある、そういう考え方をお道の信心はもう一掃して、いかなければならん事を教祖は教えておられる。そしてその次の、いうなら頂上を極めたその次の信心を持ってです、いわゆる神様が私共の願いが成就するのじゃあない、神様の願いがそれから成就するのである。その神様の願いが氏子にそのかけられる願いがあとの半分で成就するのである。ね、神の願いと私共の願いが成就した願いこそが本当のおかげであるという事をね、知らなきゃならん。そこに、成る程私共が拝んでおる神様は天地の親神様だなあと言う事を一つ分からせてもらわなけりゃならん。
   どうぞ。